串田和美とマクベス
串田版マクベス、53年間の軌跡
1966年 俳優座・俳優養成所を卒業した仲間たち13人で旗揚げした劇団『自由劇場』は同時に六本木地下の小劇場『アンダーグラウンド・シアター自由劇場』を開場した。当時串田は演出をするつもりはなく、俳優に専念していた。
劇団自由劇場は1969年ごろから六月劇場、発見の会と組んで「演劇センター」を組織し、テント公演など新たな活動を始めた。その頃半年間ほど東ベルリンなどヨーロッパへ遊学し帰国後は、最初の長期黒テント活動にも俳優として参加したが、劇団自由劇場の多くのメンバーは演劇センターの活動を続けることになり、地下劇場を去った。
一人残った串田は、戻ってきた吉田日出子や新たに集まってきた劇団員と地下劇場での活動を再開し演出も担当することになる。
その第一回公演が串田の大胆に脚色した1972年の「マクベス」であった。
その後1975年にはさらに発展した阿呆劇「マクベス12」を上演、劇団の名称もオンシアター自由劇場とした。1979年には原作に忠実な「マクベス」、1983年(家高勝演出)と4度の上演。いずれも串田がマクベスを演じている。
2020年、世界中がコロナ禍に見舞われている最中に松本、茅野で上演した「そよ風と魔女たちとマクベスと」。
そして2025年、さらに大幅な改作版として出演者も一新。
初演より実に53年の時を駆ける串田版マクベスは、今、この古典をどのように呼吸するのだろうか。
すべてはここから始まった!1972年、最初の演出作品
1972
串田:
僕が一人きりになっちゃった自由劇場で、六本木の地下劇場で 何をやろうと思って、
いろんな人が集まってもらって始めたのが、このマクベスを題材にした芝居でした。
原作の通りやるんじゃなくて、その頃は、フランスの古い阿呆劇というものにこだわっていたもんだからね、
“阿呆劇マクベス”をやりました。
自分が演出家だ! という思いはあまりしていなくて、みんなの仲間の一人という気分でいましたけど、結果的には、どんどん演出するしかないって感じに追い込まれましたね。
面白いやつだったり、演劇をよくわかってない子とか色んなやつが集まったから、まとめるだけで大騒ぎだったし、まぁ苦戦っていうよりは楽しかったですね。いろんな人がいるなって感じで。
たまたま桐朋学園の演劇科で、観世栄夫さん(シテ方観世流能楽師、俳優、オペラ演出家)を指導しているところについて行って、助手みたいなことをやったのがマクベスだったんですよね。あ!これやろ!と単純に(笑)。あの時違う作品だったら違ったものになっていたかもしれない。
3年後の1975年、そしてまた3年後の79年にやりました。
●串田和美プロデュース公演「マクベス」
1972年4月1日(土)〜25日(火)六本木自由劇場
<構成・演出・美術>串田和美
<キャスト>串田和美 朝比奈尚行 石崎収(花王おさむ)下條アトム 佐藤俊夫(佐藤B作)吉田日出子 他4名
<振付>竹邑類 <音楽>鈴木茂(はっぴいえんど)+佐藤博 <舞台監督>笹野高史






70年代の演劇界!1975年編
1975
串田:
だんだん人もたくさん集まってきていろんな演出家が集まってきておもしろいことになっていったんですね。
だからよしっていってね、10本連続公演をやろう。必ず月の1日が初日で20日が千秋楽。どんどんどんどん入れ替わりになって。僕は全部に出演したんですけど、いろんな演出家で競争して、作品をどんどん出していくという企画を出しました。その第1番目がマクベスでした。
勘三郎さんが若い頃、見にきていて。柄本明と笹野高史が女装して銀行に入って捕まって護送車に連れられて中で喧嘩しながら(笑)運ばれてくっていうシーンがあってね(笑)。それを見た勘三郎さんは大笑いしたという話が後日聞かされましたね。
70年代は、既成の正しいものをとにかく壊そうというのが強くあった。一生懸命シェイクスピアを調べたり西洋人のことを調べて金髪のカツラ被ったり鼻を高くノースパティつけたりして外国人になりきろうとしたり。そんなようなマクベス シェイクスピアだったのに対して、「いいじゃないか自由で日本人なんだし。現代人が、若者がやっているものでなんでいけないんだよ」っていう風な感じで、そんな時代でした。
●オンシアター自由劇場10月公演「マクベス12」
1975年10月1日(水)―20日(月)六本木・自由劇場
<演出>串田和美
<出演>串田和美 吉田日出子 常田富士男 笹野高史 柄本明 柳原晴郎(ベンガル)萩原光男(萩原流行)他7名
<音楽>越部信義+鈴木茂(はっぴいえんど)<振付>竹邑類 <演出助手>綾田俊樹





拡がる創作の輪・1979年版編
1979
串田:
1979年になるとね、さすがにちゃんとマクベスをやりたいという……(笑)。マクベスやろうよっていう感じが自分のなかでわいてきて、ただそのときも、わりと扮装とかはヘビメタみたいな、魔女たちはものすごいヘビメタの音楽でかーっと出てきてぎゃーッとさけぶ。良いは悪い!悪いは良い!と叫んでいましたね。
あと、自由劇場で「麻布アクターズジム」という養成所をつくって、劇団員が増えていった。それといくつかの集団と手を携えて創作しました。
●オンシアター自由劇場10月公演「マクベス」
1979年10月2日(火)―21日(日)六本木・自由劇場
<訳>小田島雄志 <潤色・演出・美術>串田和美
<キャスト>マクベス=串田和美 バンクォー=笹野高史 マクダフ=大森博 マルカム=小日向文世 魔女=真那胡敬二・大谷亮介 マクベス夫人=吉田日出子 他50名余








俳優に専念した1983年編
1983
串田:
1983年のマクベスは、もう1回本格的な、僕が俳優に専念して家高さんの演出で新しいマクベスをつくろうっていう公演で。それは吉田日出子さんがマクベス夫人を演じた血だらけの写真が残っているんですけど。すごい血だらけのマクベスっていうのをやりました。
80年代の演劇は、まぁアングラっていうのもどんどんどんどん確立し、それはアングラっていうよりは小劇場運動みたいなものがあって、小さいとこでやるってことがすごくまぁ流行ったというかな。市民権を得たという、そういう小劇場だからこそできる演劇というのはみんな注目するようになって小劇場がかなり脚光を浴びるようになったと思いますね。
当時、外で血を洗わなくちゃいけなくてね、(劇場が)狭いから。バーって引っ込んで外に出て 道端のところに出て 血の手を洗ってたら通行人がみんなびっくりしてね(笑)。通報されるんじゃないかなということがありました。おかしな話です(笑)。
●自由劇場新装開場記念 オンシアター自由劇場10/11月公演
1983年10月22日(土)ー11月30日(水) 六本木・自由劇場
<訳>小田島雄志 <演出>家高勝 <演出助手>大谷亮介
<出演>マクベス=串田和美 バンクォー=真那胡敬二 マクダフ=有福正志 ダンカン=大森博 マクダフ夫人=余貴美子 マクベス夫人=吉田日出子 他60名余





1966



コロナ禍での上演 2020年編
2020
串田:
3年、3年、4年とつづけてマクベスをやってきたんですけど、そのまま嫌になったわけじゃないんだけど、なぜかマクベスをずーっとやっていなかったということに気がついてね。37年ぶりのマクベスをやることになったんですね。ところがその年は例のコロナが大流行してしまって、そのときに「そよ風と魔女たちとマクベスと」という題名を思いついたんです。
フライングシアターになってからの作品が「ガード下のオイディプス」だとかね「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは 終わらない夢を見た」っていうふうに必ず原作の題名とちょっと変えてるんですが、まぁいわゆる台本の通りっていうのではない、自分の解釈やもう少し脱線したり、違う目線から見たシーンとかっていうのが入れるような形でやりたいなぁと思っているので。原作通りではありませんよ、それを期待している方ごめんなさいね、というような気持ちも込めて必ず。最近はそんなふうにしています。
コロナ禍の公演準備では、稽古の仕方が変則的な稽古だったので、僕が頭の中で作った通りのものになってしまった。芝居ってのはやっぱり、自分が考えたものの通りに行くってのがいいってわけじゃなくて、意外な方に進んでいったりするのが楽しい。なのになかなかそういう稽古ができなかった。今回はそれができるっていうのが とても楽しみで。「そよ風」って目に見えないもの、魔女っていうのも本当は見えているのか見えてないのかわからない。そしてマクベス。目に見えないものに支配されているっていう感じ。マクベスだけに限らず世界がそうなんじゃないかなという感じもどこかにあって、作ることにしました。
●長野県芸術監督団事業「そよ風と魔女たちとマクベスと」
2020年10月8日(木)ー11日(日)松本公演 10月17、18日茅野公演
<訳>松岡和子
<脚色・演出・美術・照明・衣裳>串田和美


